音
音とは何でしょうか。音の本質とは何だろうか。音と実存の関係に踏み入ってみましょう。
そんなことに興味を持つなんてどうかしているとお思いでしょうか。
音楽家でもなかろうに。クリエイターでもなかろうに。何かの役に立つといふ訳ではないのに。
クソどうでもいいやん。むしろ俺の作った歌を聴いてくれよ。逆に。
まぁまぁ。興味に対し役に立つとか、どうかしているなんてどうでもいいじゃありませんか。それにどうでもいいことってオモロくないですか?知りませんけど
どうかしてしまいましょう。逆に。
目の前を歩くお姉さんの映像が網膜に入って来て興味が湧く。そんな軽いノリでいきましょう。
さぁ、行きますよ。
カフェの店員のカチャカチャと皿を洗う音、ありがとうございま〜す♪の接客の挨拶、
ビジネスマンの会話、外国人の電話、悩み相談する女性二人組、店内を流れる音楽、
なんの感想も、良し悪しも好き嫌いの自分の判断も挟まずに、聞いてみる。聞こえるがままに聞いてみる。
あれとこれに違いはあるだろうか。
音はどこから現れどこに聞こえるだろうか。
あちらから、こちらから、ということがあるだろうか。
常識を脇に置いて置こう。
「そこ」からとしか言えない場所でしょうか。
しかし、距離はありましょうか
空間は?
言葉にすることはありません
ハートで鳴ってる音に注目してみましょう
気楽にいきましょう。
この実験は言葉にして理解しようとすることではありまへん。
一切の参照点を持たず聴くことでありんす。
性急に答えを求める思考を一旦置いておこう。今だけは。
「聴く」といふアートに入り、自己を消失していしませふ。
何も手をくだす必要はありませぬ。
聴いてください。
音楽の見聞もいりません。むしろ、入りません。邪魔です。
頭で理解する必要はありません。いや、むしろ、いっそのことアホになってみましょう。
子供がテレビから流れる曲に合わせてキャッキャ踊るように無邪気で居てみましょう。
興味を持つて聴くこと。
理性・思考の判断は一切置いておいてただ聴いてみる。
そこでは何にが起こってるでしょうか。
今日は以上です。
認識しない動き
この世に答えはない。正解はない。正解があると誰かが思い込んだだけさ♪
ーーーどこかにある歌詞みたいですが違います。何となく書いただけです。
答えはないが、祈りは答えである。
真剣になる時分離のない行動が起こります。
迷いの無い即行です。
認識しない行為です。
理性では理解し得ませんが、問題ありません。
理解したがるのは、「私」の性質です。
「私」は常に物事を解釈し、整理分類し、安心しようとする、人間特有の自己防衛本能でありませふ。「私」はいつも緊張してます。
しかし動物的に言っても元々理性に頼らない方が自然体なのです。
そんなもの、元々ないのですから。
人間だけです。理性に惑わされているのは。
しかし、面白いのは、理性に、思考に、頼らないで、本質的に動き、生き生きと生きられている時には「私」はいませんので、何かを認識されませんが、
後で、あの時、自分が本質と一つであった、と認識し、自覚できる力を持つのは皮肉にも理性なのです。
存在を自覚できる力があるのは人間以外ありません。
動物は理性があるか無いか分かりませんが、無意識のままでありませふ。自覚はしません。
さて。
多くの人ふ理性に頼らないと生きられないと、思い込みんでおりますが果たしてそれは本当でしょうか。
よく観察しませふ。
考えずに行為している方が多いと思うのです。
パッと目に入り、判断が起こり、購入しました。
コンマ一秒くらいです。
考えない方が的確な行為ができたりします。
考えていると、目の前で起きている現象を見過ごします。
明日の仕事のことばかり考えていて目の前のケーキを食べるのを楽しむのを忘れ上の空、みたいなことが起きます。
思考を否定しているのではありません。
ただ思考は生きる上で最重要でもありません。
思考も、他の五感と同じです。
視覚は視覚だし、聴覚は聴覚だし、思考は思考です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
閑話休題。
とりあえず行動するのが大事と世間でも言いますが、
もっと言うと
既に動いている。ノリノリで。
というのが本当でありましょう。
あまり未だ理性で思考を道具として扱うということをしていない子供は、ノリノリで動いてます。
意味がどうとか、失敗への恐れとか、何の為になるとか、
あまり考えませんね。
泣き、泣いた影を留めずもう笑っている。
せっかく一生懸命積み立てた積み木をワケもなく、大事にとって置こうなどの保身は一切なく、壊し、また積み上げる。
行為そのものが楽しいのだ。
大人のように世間で生きた経験が少ないので、記憶のストックが少ないからです。理性、思考の意味に対する囚われや恐れが少ない分、純粋なのです。
見るもの聞くもの新鮮で、思いのまま感じるままに飛びつきます。
大人に冷や汗をかかせるような分別ある理性のブレーキがあまり無い為、
命のそのまんまの即効性が生き生きを躍動しています。
理性の分別心は社会的ルールを守り円滑に物事を進める為の役割はありますが、あくまで役割であって、本質ではありません。
理性は自己防衛本能であって必要な働きは起きますが、防衛本能のバグみたいなもんで過剰に働く場合が多々ありますね。
今の人は思考に乗っ取られているのであります。
思考は道具であり、楽しむ為に使う方便であったはずです。
理性は、価値ある人生を求める、意味ある行動をしたがります。
それも良いでしょう。
でも生に本来理屈はありません。
元々、どんな価値も意味も役目も観念も付随してをりません。
物心つき、次第に分別が付き始めた頃から生きるのには、理屈が必要だという気がしているだけです。
生きるのには意味がないとダメだとか、価値ある人生を創造しなくては意味がないだとか。
そう教わったから。
本来はそのままです。今もそのはずであります。
そのままで完璧なはずで、意味も価値も無く、どんな観念に従う必要も、生きる上でどんな理屈も必要もなく、( ということはどんな理屈付け、解釈付けも自由であり)
生きることを楽しめばいいのであります。
・・・
理性のメカニズムから
話がとにかく逸れに逸れていきますのでこの辺で。
役に立つのかよく分からない記事を、そして読みずらい長文を
最後までお読み頂きありがとうございました。
全力で歩く
こんにちは、僕です。
さあ、皆さん、唐突ですが、
全力で歩くということをやったことがありますか?
ぼくはさっきやって来ました。
大股で背筋を伸ばし胸を張り速く歩きます。
これをなぜやってみたかというと、気まぐれ以外のなにものでもない。と思わせておいてぼくは仕事に行くのにかなり歩くからだ。
もっと体に負担かけず楽に早く楽しく歩きたかった。
はじめ公園で練習してみた。
これでもかというくらい大幅に股を広げてできるだけ限界まで広げて歩く。
そして速く。背筋を伸ばして。
これをやっているうちに僕は身体に違和感が出てきた。
現代人は歩く時手を左右に振り、体を捻りながら歩くのが常だが、ぼくはこの時「ナンバ歩き」をしたくなったのである。
ナンバ歩きとは確か昔の江戸時代以前に一般人がしていた歩き方だ。
足と手を同時に同じ様に同じ方に出して歩く歩き方だ。
このほうが体に負担がかからず楽に気持ちよくあるける。
武士、そして忍者もこの歩き方だったらしい。この歩きは速く効率よく歩ける歩き方としてこの僕は今注目しているのである。
そして最近スポーツの分野でアスリートが近年割に注目を浴びているそうなインナーマッスルである大腰筋を意識して歩いた。
これが気持ちがいい。
公園で少し練習をしてから街を歩いてみた。
目的地まで少し距離があったので、今日は行くのやめようかと思案していたが、公園でしたナンバ歩きによって歩こうと思ったのである。
そしたら、ものすごい速くついた。
なんていうか歩いているときとても集中していた。
歩くことに没頭できていた。
大股で速くしかもナンバ歩きで街を歩く男、これは少々人の目に奇異に映ったかもしれない。がそんなことお構いなし。こっちは歩くのが気持ちよくて仕方がない。歩いて歩いて歩きたい。歩きまくりたい。歩く人になりたい。もはや人を卒業して歩くという動物になりたいと思った。
そして気が付いたら目的地に到着していた。時間はどのくらい立ったか見ていなかったのでわからないが、普段の歩くスピードの倍以上は速かったと思う。あくまで主観的な体感速度だが。
大股でかっぽかっぽすごいスピードで歩く。巨人になった気分だった。
そして最後のほうもっと、すごいスピードで歩ける歩き方を開発した。
だが、これはキモ過ぎてちょっと街では実践できなかった。山とかならいいとおもう。人間にはまだ早い歩き方だ。自分が人間であるという固定観念を脱却しこの歩き方を追求し始めたら、野生動物に張る歩きを開発できるんじゃないかと妄想する。
この歩き方はそのうちまた研究していこうと思う。
ヨガやっている人で聞いたことあるが、ものすごい速いスピードが出せる歩き方があるらしい、ただそれはとても変な歩き方らしい。
あと知り合いの坊さんのヴィパッサナー瞑想で意識を気づきに向けて歩くととてつもない速さで歩くことができるらしい。彼はものすごい歩くのが早いらしい。肉体の運動神経ではなく意識の力を使った歩き方だ。まあこの辺は難しい話になる。おいておこう。
思うのはしかし、固定観念を脱却し物事を追求できた人は、やはり突出した何かを生み出せるのだろうか。ってことだね。
しかし、この大股で全力で歩く。これを実践すると気持ちがいい。
カメラマンから消防士に転身した知り合いが昔ぼくに言っていた。
「全力でやれば疲れない」
まさにこれを実感した。
ぼくは全力で没頭し集中して歩いていた。
疲れず、むしろ元気になり
とても気持ちがよかった。
いや、全力でやっても疲れるときには疲れるだろう。当たり前だ。
でも事の最中に於いては、夢中であればあるほど疲れとかは吹っ飛んでいるのだろうと思う。
まあ疲れたとしても、その疲れは快い。気分は爽やかだ。
歩くことは健康法として特に近年は取り入れられている感がある。
確かに筋骨は鍛えられるし、体力も付き、体温も上がり、代謝もよくなり、、、いいことずくめだ。
さらに自発できに、やっていることそのものに没頭していればいるほど効果は倍増するように思われる。
うん。何事もそうだ。今ヤッていることに没頭して生きよう。
これは生きる極意だ。知らんけど。
歩きにかんしてはもっといろいろ書きたいことがあるが、このへんで今日はやめておこう。
話は僕の悪い癖でどんどんズレていってしまう予感をバシバシ感じる。
僕は今健康に凝っている。
それだけ言っておこう。
では、今日もありがとう。
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言葉ー実在
「手」でもいいし、「口」でも「机」でもいい。
「立つ」や「動く」でもいい。
要は言葉は何でもいい。
言葉は単なるレッテル。
意味はない。
しかし、言葉を言霊として観るとき実在の奇蹟を感ずるのである。
今少し時間をとれるかい?
いったんすべての作業を止めて
言葉の背景にある底なしの虚空を感じてみないか。
言葉は意思伝達のツールとして太古から意味の叫びをしての役割が持ってきた。
意味とは人間特有の狂気の尺度と見えよう。完全に狂ったヒトという狂的動物の作り上げた実態なき奇蹟の幻影だ。
一つの言葉の奥には無限の意味の森林のネットワークが、意味の宇宙がぴょんぴょんぴょんぴょんと跳梁跋扈しぴちぴちと悪戯を楽しんでをるのだが、その深淵では常に何の意味のない虚空のなかの虚空の王、鼻毛神剣丸が笑ってをるのじゃ。
(・・だんだん調子が上がってくるから心配するな。こっちはブログ慣れしてないんじゃコラ。しかもほとんどスマホからの書き込みだ。舐めるなよ
いやごめんなさい。いまの無しで。
いやつまりこんなこと書きたいわけではない。
えっと、
ちんこ・・
い
やいきなり意味不明すぎるし「ちんこ」というワードはこの記事になんの関係もないどころか、ホンイキで気の狂った輩に見える。
まあ
とにかく「ちんこ」でもいいし「神」でも「目」でも「掻く」でもいい。
言葉として指示された実在を感じてみよう。
意識の一応の物質化としての言葉。意味の源である存在。
それを感じることは詩人としての当然の素養である。いや武士にとっても、
大統領にとっても、主婦にとっても、
意識が自分自身をとりあえず、「人間」と自分を認知する者であるならば、重要なことであろう。
では本日はこの辺でお暇する。
座禅
やぁ。ヘロー。
坐禅して気づいたメモを書こう。
昼、起き抜けに坐禅をしていて気づく。
あ〜、始終「自分の都合」ばかり考えているな〜、と。
坐るとよく気づく事だが、改めて気づく。
自分の生活のこと、今後の仕事のこと、自分の在り様をどうするか、などなど。自分の事ばかり。思いの中で巡っている。
「ああしたらいいか」「あ、こうしようか。
」「今日はどうするか。」「あいつ何してるかな。」「あそこ行こう。」
坐禅は、「思い」の世界を離れて実相に触れる時間である。
僕らは日々思いの中で生きているからね。
思いは浮かんでは消えていく。それっきり。
虫がぶーー〜っんと一瞬目の前を通り過ぎるように。刹那滅の出会い。
振り返ればどんな思いも、有ったのか無かったのか今では分からないほどのもの。
パンっ、と両の手を叩く。これっきり。
いや、こんなところで禅問答を始める気はない。
今日気づいたことは、思考は自分の都合ばかり考える構ってちゃんなのだ。
構ってちゃんなだけで可愛い奴なので単に見てあげる。それ以上深刻に関わるものでもなかろう。
どんな思いも悪いものではない。
坐禅は自分をシンプルにする。
素直にする。
思いの世界から離れる。
主観から離れ自分を他人事のように見る。
不立文字。言葉を離れる。
どこにも主体の無い有り様。実相に触れる。
カンカンカン。大工の音が聞こえる。
換気扇のフゥゥウゥウゥウウーーーといふ音。
煩雑に散らかった部屋。肌に当たる風の感触。思考に次ぐ思考。外に出て子供と目が合う。
これは何だ。
訳の分からない世界に当たり前に居る、このことの不思議に触れる時節が道半ばで在る。
言葉を弄するのはここまでにしよう。
須らく見を離るべし。
では、さらば。
記事を書く
記事を書く
「記事を書く」ってテーマで記事を書く。
記事を書くっていうのはブロガーにとって行である。(いつからブロガーになった?)
そう、日本古来からある精神修養法としての行として捕らえるとわかりやすい。(固いな。。)
ブログとはただ書くという行為そのものになりきって没頭しきるのである。無我無心である。
「書けない」だとか、どうでもいいのある。無我無心になろうとすることも余計である。雑念が浮かんでもいちいち「あぁ雑念が浮かんでダメだ」などと考えたり、浮かんだ考えを「雑念」だとかレッテルづけしたり、なんとしようとしたり全部余分である。
雑念があるならあるでそのまま行じるのみ。
初心者だとか玄人だとか。書きたいネタがないとかあるとか。これも余計。
修行というのは、何も考えずに、ただ行ずるのみ。
理屈もなにもないのである。
例えば、禅の修行者は日々、日課の行として、毎日掃除をする。
「昨日もここ掃除して綺麗じゃん」といった「記憶」に惑わされたり、
「これに何の意味がある」といった「意味」に捉われたり
「今日は疲れてるし、、」などと言い訳を創案したり
まあ通常、人とは
そんなものである。
いまここに集中できず、心ここにあらず状態では本来の持っている力は発揮できませんね。
行とは
なんやカンやの理屈はいったん置いて置いておき、理屈に先んじてにただ行ずる。
自分の判断はいらない。行とは半ば強制的なものである。形からまず入る。慣れるとそれが無意識的な行為となり、努力している感覚もなくなる。行為ではなくなり、出来事と一体化した現象となる。
武術やどんな仕事でも始めたての見習いはたどたどしく必死に努力し、仕事なりなんなりの動作を覚えようとする。反復の練習で身体が慣れると、意識して努力せずとも合理的に楽に自然体で動ける様になるのである。
ブログ以外でも仕事でも家事でも始めは慣れぬ内は大変やけどなんでもそうなれば楽やね~
っていう
ブログのことをあまり知らないワィが
独自な視線で記事を書くことの記事を書いた記事でした。